タイトルとかはないよ、いまんとこ。

>アスペな自分 頭でっかちにならないように、体験ベースで書けよ。

河合隼雄氏はあれもこれも自分の全存在をかけて担えと言った。:家族関係を考える

結婚して、自分の実家と相手の実家の文化の違いや、これからつくっていく自分の家族とそこでの自分の役割に、悩むようになりました。

別記事(岩本友規氏に倣って発達障害の身体を乗りこなしたい)で紹介している岩本友規氏の著書に「ロジカルな家庭運営」という言葉が出てきます。が、それに直結するような本がなかなか見つからず、何かないかと探しているときに出会ったのがこの本です。友人がたびたび口にしていた河合隼雄氏の著書であったことも後押しになりました。

時々目にする「父親は環境」という言説について、その言葉は用いられていませんが、「社会の規範の体現者」という形で言及されています。

実践のための本にはまだできていません。実践のための背景、哲学形成には役立ちそうです。そういう意味では、わたしの中では『マイ仏教』(みうらじゅん)と近い存在の本です。

この本の一番のメッセージは「中心となる人は固定しない」というところでしょう。つまり、すべての成員がその時々で家庭内の中心となりうるのだから、本気で生きろ、と。

仕事の時間は止まるけど、家庭の時間は止まらない。時計の止まらないサッカーみたいだ。

家族関係を考える (講談社現代新書) [ 河合隼雄 ]

価格:792円
(2020/3/25 01:35時点)
感想(1件)

1 いま家族とは何か

妻とわたしの実家は、相性がいいとは言えない。そのストレスを、きちんとぶつけてもらえるような自分でありたいと思う。

夫婦間でも、そのバックボーンの違いから、摩擦が絶えず起こっています。ここから逃げてはいけないと思いつつ、冷静に向き合うことはなかなか難しい。つい、新たな文化を生むのではなく、どちらかに合わせてしまったり、なかったことにしてしまったり…。

ケンカはしんどいけど、黙って無かったことにして我慢するより、よほど生産的で創造的だと思う。きちんと向き合って、対話して、衝突するのがよいと思う。

ただ、実の親相手にはなかなか難しいです。

※仕事のストレスと、家庭のストレスと、ストレスになったときにどちらがしんどいかと問われれば、家庭のストレスの方が、しんどいですよね。情緒安定させてくれるものだと、思ってますから。

家族とは一体何であろうか。…有名な学者であるパーソンズは、家族以外においては十分に遂行されえない機能として、育児(社会化)と大人の情緒安定機能をあげている。

子どもは一般に、親のいうことよりも、していることによって教化されるようである。

家族の一人一人が自分の言いたいことが言えるし、必要ならば衝突し合うことができる…このようになると家族の関係は随分と楽しくなってくる。

2 個人・家・社会

ツーカーではなく、相互理解のために対話を必要とする相手として対峙できるようになりたい

母性的で一体感を求める周囲とのズレは、私のアスペルガー特性故により大きく、わかりやすい形になっている。そこに、夫婦の実家の家風の違いも加わり、さらに目立つものとなっていると思う。

結婚を決めてから式までの流れの中で、その家風の違いやお互いの特性の違いが浮かび上がったが、早めにわかって良かったとも言える。(本当によかった、と言えるためには、乗り越えなければならないと思うが、それはまだまだ先の話である)

母子の一体感を破るものは父親である。子どもは父親の存在を通じて、「他者」の存在を知ることになる。

子にとって父親は、社会の規範の体現者であり、それを守らぬときは罰を与える怖い存在である。しかし、子が規範を守るかぎり、父親はそれを賞し、子が社会へと出てゆくための知識や技術を授け、教えてくれる存在でもある。

…母性原理は、「切断する」ことを主な機能とし、…父性原理は…「切断する」機能にその特性をもっている。

父親はあくまで「世間様」に笑われないように、子供を教育しようとした。…日本の場合の社会規範というものが…日々の体験の積み重ねのなかから体感していくべきものとして存在している…善悪の明確な規範があり、それに従って判断されるのではなく、何かの事が起こったときも、それをどのように全体の平衡状態の中に吸収してゆくかが大切なことなのである。

われわれは、今までに明らかにしたような不文律的な母性倫理をもち、その上に儒教的倫理を上乗せしてきた。そこにまた新しく父性的な倫理が侵入してきたとなると、その倫理観は大いに混乱して当然である。

地域で子育て

「地域で子育て」賛成派です。が、これは、地域で暮らすこと。好意的に見てみたときのポテサラおじさんみたいな、おせっかいで世話焼きなおじさんとの面倒なコミュニケーションをいとわず、「町内下町化計画」「マンション長屋化計画」を実行していける妻あってこそだな。(20/8/8)

「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」の声に驚いて振り向くと、惣菜コーナーで高齢の男性と、幼児連れの女性。男性はサッサと立ち去ったけど、女性は惣菜パックを手にして俯いたまま。
私は咄嗟に娘を連れて、女性の目の前でポテトサラダ買った。2パックも買った。大丈夫ですよと念じながら。

みつばち(@mitsu_bachi_bee)

地域のみんなで子どもを育てる
長屋で暮らす住民たちの支え合いは、生活必需品の貸し借りだけでなく、育児にも及んでいました。子どもが生まれると、住民がみんなで世話を焼き、地域社会で育児を行っていました。そのため、生活費を稼ぐために長屋の外へ働きに出なければいけない母親も、育児に煩わされることもなかったそうです。

江戸時代の長屋と現代のシェアハウスに見る、暮らしの共通点とは? | 茶堂

「あぶない!走るな!」と、突然大きな声でおばあさんに怒られました。息子も私も一瞬ギョッとしましたが、とてもありがたいことだと思いました。私が走るなと注意しても聞く耳を持たない息子ですが、他人から注意される事に慣れていないため、素直に手をつないで歩き始めたのです。

そのおばあさんは私がいることに気付くときまずそうな顔をしていましたが、私は「すみません」ではなく「ありがとうございました」と無意識のうちに言いました。

【子育て体験記】下町で子育てするということ/荒川区公式サイト

3 親子であること

保育士の妻が、子どもがいつでも「おかーさーん」と泣きつけるようにしたい、と言っていた。ベースはそこにあり、少しずつ泣きつかずに一人でできることが増えていく、という形が良い、と。何でも(我慢して)一人でできるようになってしまう(させる)のとは違うのだ、と。

また、「だめ」という制止の言葉も要注意と言われて、なるほど、と思いました。子どもにとってただ禁止されるべき行動は少ない。多くの場合、それをすると親が困る、友達が困る、など、誰かが困るからやらないで欲しい行動のはず。「困る」と伝えることで「だめ」を置き換えてみたい。同じ理由で「○○しないほうがいい」も、「××したほうがいい」とホワイトリスト式の言葉に置き換えたい、とのこと。

そして親子の場合も、最初に運命的に結ばれるものではあっても、互いに相手を親として、子として認め合ってゆくためには、強い意志の力も必要なのである。

子どもを育てる上において、母子一体感の重要さは何度繰り返しても足らないほどのものである。…それは「母なるもの」であればいいのであって、必ずしも生みの母であることを必要としない。

子どもを包みこんで養ってゆく肯定面と、包み込む力が強すぎて子どもの自由を奪い、呑み込んでしまう否定面とが存在する。

人間が自立してゆくということは、…自分の内界に存在する母なるものからは自立してゆくと共に、現実の一個の人間としての母とは、お互いに限界をもった人間同士としてつき合ってゆくことになることを意味している。

4 夫婦の絆

ずいぶんと違う二人が相補いあうために知らず知らずのうちに出会ってしまうことを運命的と呼ぶ。それを自覚すること…お互いの違いは補い合うために存在すると知ることで、敵対ではなく発展的対立につなげよう、ということか。うちもずいぶんバックボーンというか、育ち、お互いの家の歴史が違うのは、強く感じます。

結婚は、家族でない人と家族になること。

このテーマについては別記事にまとめなおします。

 

5 父と息子

私にとって父は恐ろしい存在。こちらの事情を考慮して許しを与えてくれるような存在ではありませんでした。

父にとって私を組み入れようとする先は世間ではなく、彼自身の考えだったように思います。あるいは、父にとっての世間には、極端にいえば父一人しか存在しないのかも。

そのとき、なにをもってして母子一体感から切り離すのか、どういった規律なのかを対話によって相手に伝える必要があったはずですが、それがなされなかったのか、わたしが受け取り損ねたのか。わたしが今も感じる恐怖は、どんな規律に取り込まれようとしているのか理解できないまま母から切り離されたことによる恐怖かも。

そして、その統合先を、仮に妻、あるいは妻の歴史に求めてしまうようであれば、それはおそらく短絡的な解決策で、求めるものはそこではないと思う。

…日本では自然と対立しない、自然と共存する文化ができてきたのである。ここで、父親は確かに子どもが社会に生きてゆくための規律を教える役割を担うのであるが、その規律は、むしろ母性原理に基づくものである。

父なるものは、子どもが母親より離れ自立してゆくとき、自立を支える規律を与えてくれる。

父なるものにも、天なる父と土なる父とがある、と考えてみてはどうであろう。…土なる父は、肯定的には、力強くて暖かく、生命力を与えるものであり、否定的には、恐ろしく、生命を奪い去る強さとして感じ取られる。

文化や社会の変化の早さのために、伝統や規範の荷い手としての父の役割は、急激に希薄になりつつある。

…ヨーロッパにおいての大きい問題は、天なる父の法律が全世界に通用するものではないことを認識しなくてはならなくなったことではなかろうか。

現代の父親は、今更、昔をなつかしんで、土なる父の猛々しさを取り戻そうとしても、すげなく子どもに拒否されるだけであろう。…父親の怒りを取り戻そうとするにしても、借り物としてではなく、自分の存在の根から掘り出したものに従わねば、何の効果もない。

われわれ父親はそこで、まったく頼りのない存在として、自分の全存在をかけて子どもに対するより仕方がないのである。そのときこそ、子どもは手をさしのべてくれるであろう。ただそれは、しばしば外見的に見栄えの悪いものとなることを覚悟しておかねばならない。

6 母と娘

乳幼児育児ってこんな感じかも。

不思議なのは、昼間どんなに母親にべったりでも、夜の寝かしつけ出よく寝てくれるのは私が寝かしつけたとき、ということ。どうやら、妻に抱かれるとうれしすぎて眠れないらしい。

息子は母と同一になり得ない。しかし、娘は母になることができる。母・娘の結合が非常に強いとき、…そこに存在するのは母と娘というよりは、「母」という偉大にして不変な存在のみと言うことになる。ここで男性の存在は、ほとんど意味を持たない。

強烈な母・娘結合に対抗し得るだけの個性を自分の中に見いだすことは、大変な努力を要する仕事である。酒を飲んだり、散財を繰り返すだけでは、うまくゆかないのである。

娘は母との結合を断ち切るためには、その内界においてハーデースの侵入を受け入れねばならないことになる。…思春期の娘が母親と急に話をしなくなったり、いろいろ批判がましいことを言い立てたりするようになるのは、このためである。

わが国では…母性の否定的な面が意識されないままになり、その代わりに、嫁・姑の間で、それはより歪んだ形で体験させられることになるようである。

嫁は自分の円の中に夫をいれ、姑をその円内には一歩も入れまいとする。姑も息子を己の円の中に入れるが、嫁をそこには入れまいとする。息子は二つの円の間に火花が散らないかぎりは、どちらかの円の中にはいって、平然と生きている、ということになる。…円の中に入れるか入れないか、ということになると共存は極めて難しい。

この困難な課題に挑戦した女性は、少なくとも円の中心に自分を置かないこと、あるいは、円の輪を無限に拡大すること、という課題に直面することになる。

娘は母と同性であるので、母に同一化しやすい反面、母親の影を生きさせられることもよくある。

母・娘の関係は、…娘が一時的に反抗的になるにしろ、もっとも自然なものとして、どうしても切れない関係として、両者に安住の地を提供するものである。…娘なしで安らかな老いと死を迎えるためには、親は相当の覚悟と努力を必要とすることになろう。

母性の強い我が国においては、母・娘結合の心性として述べたことはすべて、男性の心性においても当てはまるところが多い

7 父と娘

核家族でいかに父性原理を働かせるか。それも表だった形ではなく、「祖父の教訓」のような背景的な、文化の継承的な形で。その方法が問題だ。

結婚にあたって、父・娘結合はどこかで切らねばならない。しかし、日本においては、それが切られてしまうことはない。母性的な裏づけはあくまで、そこにはたらいており、言語的説明を超えた次元で存在している。

ある男性にとって、内なる異性を自分の妻に投影し得ず、さりとて他の女性にもなし得ないとき、それは娘に向けられることが多い。…その度合いが強いときにのみ、娘は結婚することが難しくなったり、最初に示した例のように、結婚後も苦しむことになる。

日本では、祖父ー母ー息子という形態なので、父性原理は直接的ではなく、あくまで間接的に息子に作用するのである。

父・娘パターンを、日本人の心性と、結びつけて考えるならば…外に向かっては娘のような、あるいは母のような柔らかさを示すのだが、その背後に男性原理の厳しさが存在していることを理想と考えるのである。父性原理が直接的に作用するのを日本人は好まないのである。

日本の男性はまず母性原理を身につけることを訓練されるのだから、若い男性たちが本来的な意味で父親役を果たすことは、極めて困難である。いきおい家庭には母性原理が強くなりすぎ、それを補償する父性原理の風は、どこからも吹いてこないのである。

日本の大家族制において自然に生じていた多くの補性作用を破壊してしまったのだから、これから核家族を作ってゆく人は、相当な反省と覚悟の上に立って家庭をつくっていくべきである。

8 きょうだい

妹が生まれたときに私がどう感じていたか、全く覚えていない。自分の身体との違いなんかは子どもらしく不思議に思ったこともあるが、妹がちやほやされてずるい、みたいな感情、あっただろうか。(これに限らず、幼少期の記憶はほとんどないが)

高校でアカペラを本格的に始めた頃、妹も幼少期から続けていたバレエが本格的になりはじめ、親の金であちこちプロのレッスンなど受けに行くようになっていたのを見て、小遣いで練習に行ったりライブを見たりしていた私が、親に資金援助を頼み込んだことはあった。

「自分のアカペラと、妹のバレエと何が違うのか」と尋ねたとき、確か、「アカペラでどうなるつもりなのか」と質問を返された。それに対して私は「どうにかならなきゃ歌っちゃいけないのか」と返したはず。当時、妹はプロを目指していたのかもしれない。結局、交通費程度は出してもらえるようになったのだったか。

私は娘にきょうだいをもたせてやれるだろうか。妻とは前向きに話している。が、正直最近あまり自信がなくなってきている。今でさえ、目が届かなくて「娘を殺す気か」と怒鳴られることもしばしば。親になることで注意欠陥を補える何かを育ててほしいと妻は思っているようだし、そうできる可能性はゼロではないと思うが、なかなか上手くいかない。(20/4/18)

先日、「父親になることで成長することを期待している」と妻に言われた。仕事でも何かに任命されるのは、それまでの自分の方向性のままさらに伸びることを求められているのだと、都合良く解釈しているが、今回はいかに。上述の悩みは抱えたままだ。(20/6/2)

Step7 自立のための育児、育児のための自立

兄弟という存在は、時に同一の生命を分かち合うような親密さと、互いに他を殺さざるを得ないほどの敵対感とを感じさせるものなのである。

いかに血はつながっていても、結局は、きょうだいは別れてゆき、利害関係が優先するようになることを、古来から「きょうだいは他人のはじまり」と言うように表現することがある。

子どもにとって、両親(特に母親)と自分の世界は、絶対的と言ってよいほどのものである。にもかかわらずらそこに他人(つまり、自分の弟妹)が入り込んでくるのは、世界の崩壊にも等しい大事件である。…親としては、そのような体験に潜む、子どもたちの悲しみを共感することによって、障害を少なくしてやることが大切だが、悲しみや苦しみを味わわせないように、あるいは、そのような感情を存在してはならないものとして無視することは、避けねばならない。

親が子供を大切にすればするほど、子どもは幸福である、そして、大切にするということは、物を豊かに与えてやることだ、という極めて単純な考え方がそこには存在している。…そこには、子どもの経験する悲しみや苦しみを、自らも共にする苦痛を逃れようとする気持が、潜在しているようである。…ほとんどの親は、自分の子どもたちを「平等」に扱っていると確信している。しかし、子どもたちの目から見るとき、絶対の「平等」などは存在しないのである。そしてまた、それは不可能なことである。

子どもたちが、きょうだい間の不平等を訴えるとき、…少し辛抱して話を聞いてやると、…子どもたちが自らの個性の存在に気づきはじめたときや、自立的になろうとするとき、このような訴えをすることが多い…ゆっくりと受け容れて聞いてやっていると、だんだんときょうだい間の差異の存在ということから、自分の個性の発見というほうに話が向かってくる。

一人子の場合、親としては親類とのつき合いや、近所の親しい人との交流によって、きょうだい類似の者をもつようにするのも、ひとつの工夫である。他人と苦楽を分かちあったり、競争しつつ親しみを感じるようならきょうだい関係によって経験できる人間関係を、親がある程度用意してやるのが得策ということである。親の期待過剰やら物質的な与えすぎは、一人子に重荷を背負わせるものである。

親から真の異性へと到る中間に、異性のきょうだいの像が存在している。

きょうだい喧嘩は必要な学習である。…きょうだい喧嘩を少なくして欲しいと願う親は、子どもの個性に目を開かねばならない。きょうだい喧嘩の多くは、親の考えが単層的であるために、どちらかを良い子にしたり、どちらかを悪い子にすることによって助長される。

9 家族の危機

両親が深刻な雰囲気で深夜に話し合っているのを幼いときに見てしまったことがある。何か見てはいけない物を見てしまったように思い、両親には伝えていない。内容は聞こえていないのでまったくわからないのだが。

私が中学生ぐらいの頃までは、週に一度近所の天理教の分教会に通っていた。父方の祖父が亡くなった頃だったか、そこで、会長さんだかその奥さんだかが、母に、妻としての夫の支え方がある、などと言っているのを聞いたときには、肉体的な慰めを想起してしまって、いい気分がしなかった。実際どういう意図だったのかはわからないけれど。

大学頃には、正直なところ、実家の雰囲気にはうんざりしていた。夕食の席を囲んでも会話はなく、旅行や行楽に出かけても、どこかぎこちない。家で過ごしているときも、父が不平を漏らし、母は黙り込む、あるいは、寝室にこもるといったことが増えていた。誕生日や旅行など家族で集まる行事を頻繁に行っていたが、必死に家族の体を保とうとする営みのように感じていた。

高校生の妹も小学校の終わり頃からか友人関係がうまくいかなかったのか、精神的に不安定なことが多くなった。そんな妹に母はべったりだった。妹なりにサバイブしようともがいていることは感じられたが、私はそこに首を突っ込もうとはしなかった。

就職して1年、金をためて家を出て以来、そういった家族の空気感の中に妹を放置し、押しつけてしまっていることには罪悪感がある。そのことは一度妹に謝った気がするが。そのあたりで、親を一人の人間として見るようになり始めた気がする。

実家の問題として

  • パラサイトシングルな妹の自立
  • 定年後の父の暮らし~介護が必要になる可能性
  • 子ども二人とも30過ぎても奨学金返済中である

などがある。妻からも、妹をどうにか自立させるべき、と求められている。

(これは私の奨学金が返済中であることが大きく絡んでいるのだが)

両親は自分たちの悩みを子どもには隠しているつもりでいる。しかし、子どもは心の底のどこかで感じとり、それはノイローゼの症状となって顕現されるのである。…よい加減のごまかしよりも、結果は望ましくないにしても自体が明確にされる方が、子どもにとっては幸福なことがあるのである。

人間の幸福や、生き方について簡単なルールはないようである。ただ、どこまで誠実に自分の生き方について考え、生ききるかということになるのであろう。自分の幸福のみを単純に考え、子どもの幸福を無視するのは、まったく馬鹿げているし、子どもの幸福のみを考えて、自分たちの生き方をまげてしまうのも望ましいことではない。片方のみを重視する人は、結局はそれをも失ってしまうことになるだろう。人生の問題は、あれかこれかの選択としてではなく、あれもこれも担うことによって解決に至ることが多いように思われる。

家族は不思議な一体性をもつので、家族の中のある個人の問題は思いがけず、他の家族たちにも影響を及ぼすものである。

子どもたちの病気の場合は、親としては、それが何らかの「意味」をもつものではないかと、一応考えてみてもいいくらいである。魂の叫びは多くの場合、言語によっては表現できず、身体の状態として表現されるようである。

高校生は嫌でも登校しなくてはならないと父親が言うと、息子は反撥した。お父さんは好きなことばかりしているではないか、と言うのである。…父親はたまりかねて、会社の部長といっても、どれほどばかげた仕事をしなくてはならぬときがあるかを説明した。…ここに行われた会話は、本来ならば夫婦の間でするべきことであった。
対話をしつつ共存してゆくためには、人は自分の欠点や他人の欠点について、ある程度触れてゆく勇気を持たねばならない。
中年の夫婦が子どものことや、自分たちの親兄弟のこと、あるいはその他いろいろなことで災難を受けたと嘆いているとき、それをよく見ると、それが夫婦の危機を避けてゆくために、うまく役立っていることが多いものである。

自立に伴う自己犠牲についてまったく自覚のない人が、強い自立志向を持つと、その家族の中から思いがけない、いけにえを出さねばならない。

人生はパラドックスに満ちているが、われわれが「自己」とか「私」とか言うとき、それは思いの他に他人を含んでいるのである。

10 老人と家族

両親は中国地方の出身であり、私が小さいときに東京に引っ越しているので、私は祖父母との接点があまりなかった。帰郷も数年に一回といったところか。

老人の知恵や、年長者を敬うといった文化に、触れる機会が少なかったかもしれない。それは、もったいないことかもしれい。

とはいえ、では、私が自分の両親と、自分の娘を、頻繁に会わせたいか、というと、難しいところがある。というよりは、私と妻がそのたびに自分の親に会うことになるが、現時点でいろいろな問題が蓄積されてきていて、それが解決されていないと、どうしても及び腰になるところがあることを、どう解決したらよいか、という問題が残っている、ということか。

現代人は彼らが最後に旅立ってゆかねばならない世界に対してイマジネーションをはたらかせることを、あまりにも怠っているのではなかろうか。

それは、われわれのこの世での生き方に豊かな裏打ちを与えてくれるものである。

老人を家族にもつ人は、老人もその家族も死後にもう一度会うことについてイマジネーションを持ってみられるといい。おそらく、死後において肉体やこの世の現実からフリーになった人間は、今よりはもう少し透徹した目をもってものを見ることができるであろう。そんなときに、老人から「お前があの時にした事は……」と問いかけられたら、私の死後の魂はどのように答えることが可能であろうか。

11 家族のうち・そと

互いの家の文化の違いについて、それを良い悪いで評価してしまうことは、できれば避けるべきだと思う。好き嫌いはありかな。いずれにしても新しく作っていく家庭の文化にそれぞれの実家の文化をどの程度取り入れていくかについては、自覚してたほうがいいかなと思う。

ただ、これはなかなか、しんどい。「言ってはならない真実」を口にしてしまい、いさかいになることもある。ただ、何をしている最中なのかを自覚していれば、癒し難い亀裂にまで発展することを防げるのではないか、と思っている。それが、本の冒頭に出てくる「必要な衝突」の一つの形かな、と。

私の両親も、私も、「言ってはならない真実」に触れられると、逆鱗に触れられたかのように逆上してしまうことがあるが、これが「自立があやふや」ということなのだろうな。

岩本氏の著書によれば、「自立」には、何かに集中することが必要だそうだ。対象があることで、自分との比較の中で、自分について自覚的になれるのかも。子育てを通してそれが行われることが、「親として育つ」ことの一般的な形かもしれないけれど、それがすべての人に万能に効くとも限らないし、育ち方がいびつになることもありそう。

Step7 自立のための育児、育児のための自立

夫婦の間に存在する微妙なずれが、親類の行動によって急激に拡大され、癒し難い亀裂にまでなってしまうこともある。

夫婦であれ、親子であれ、「言ってはならない真実」というものは存在する。…逆上して、夫婦のどちらかがそれを口にするとき、両者の間の亀裂は癒し難いものとなる。

自立と孤立は異なるものである。自立した人は他人との交際によって個としての存在を脅かされないので、交際を拒否することはないであろう。自立があやふやな段階では、他人との交際が難しいので孤立してしまうことになる。…問題は大人になっても孤立を続ける人である。

自分の家、家族の在り方をよく知るためには、家の外からそれを眺めてみることが必要である。

現在の親は子どもに何かをしてやるよりも、できることでも敢てしない愛情をもつことが必要なように思われる。

同居している母親の妹は、子どもにとって、母親と恋人との中間に属する存在として心をなごませ、未来への夢をはぐくんでくれたであろう。 

12 これからの家族

個性を生かすには家族が邪魔のように思われるし、家族なしの孤独は、また個性を破壊する作用をもつ。どちらか一方に偏ることなく、その他多くの生きることに伴なうパラドックスを避けずに努力を重ねていると、われわれは自分自身の中に思いがけない潜在力のあったことに気づかされる。そして、そのためになすべきことが増えても疲れないどころか、以前より元気にさえなるのである。

これからの家族は、その成員の各々にふさわしい永遠の同伴者を見出すことに、互いの協調と、時には争いをも辞さない家族となるべきだろう。

家族はそのときに応じて、父親なり母親なり子どもなりを中心として生きてゆく、つまり家族のなかに、永遠の同伴者の顕現を感じとってゆく、と考えていいかも知れない。つまり中心となる人は固定しないのである。それはあくまで仮の中心であり、本当の中心は背後に存在している。

最後に、この同伴者はわれわれに、思いがけないいけにえを強いるものであり、そのいけにえを受容する態度も必要であることを、再度つけ加えておきたい。

f:id:jinthebassman:20200405142536j:image

第六章 消失点
幸福とは、日々経験されるこの世界の表面に、それについて語るべき相手の顔が、くっきりと示されることだった。
世界に意味が満ちるためには、事物がただ、自分のためだけに存在するのでは不十分なのだと、蒔野は知った。

『ここが誰の大切な場所か』って考えるようになって生きやすくなったなぁと思う。
自他の境界線を身につけてた時にこれをよく考えてた。それまであんまり深く考えてなかったからさ、視点が自分になってたんだよね。「私が訪れたお店」とか「私が乗ってる電車」とか「私が働いてる場所」とか。
OKAMOTI(@OKAMATI1)

あとがき

「実存的対決」などという表現を本書のなかでもしているが、肩書きや学歴などと関係なく、人間がぶつかり合うところに家族関係のおもしろさ──したがって、難しさ──が存在しているようである。

関連書籍

家族関係を考える (講談社現代新書) [ 河合隼雄 ]

価格:792円
(2020/3/25 01:35時点)
感想(1件)

【中古】 【コミックセット】プロチチ(全4巻)セット/逢坂みえこ 【中古】afb

価格:1,440円
(2020/3/25 01:36時点)
感想(0件)

【中古】ライスショルダー 18/ なかいま強

価格:478円
(2020/4/25 16:18時点)
感想(0件)

マチネの終わりに (文春文庫) [ 平野 啓一郎 ]

価格:935円
(2020/4/25 16:19時点)
感想(11件)