タイトルとかはないよ、いまんとこ。

>アスペな自分 頭でっかちにならないように、体験ベースで書けよ。

主体的になれと影山知明氏も言った:ゆっくり、いそげ カフェからはじめる人を手段化しない経済

スローライフや丁寧な暮らしに憧れながら、簡単には経済競争から降りられないし、降りるつもりもない。そんなことを考えているときにこの本に出会った。

働き方改革が叫ばれ、新型コロナが蔓延する今、もう一度読み直して、心の糧にしたい本。実践は足下から。


ゆっくり、いそげ カフェからはじめる人を手段化しない経済 / 影山知明 【本】

価格:1,650円
(2020/5/2 02:22時点)
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宇野常寛(以下、宇野) 時間に対して自分が主導権を持ってるって感覚、これが自己肯定感のベースだと思うんですよ。日中の活動的な時間を他人に決定されてることの絶望みたいなものって、圧倒的に大きい。
負の気持ちでしかつながれない日本はインターネットの使い方を間違えている|「自分を仕事にする生き方」がこれからのスタンダードになる 宇野常寛×はあちゅう|宇野常寛/はあちゅう|cakes(ケイクス)

まえがき

北島康介が金メダルをとったときの戦略と、ラテン語のことわざ「ゆっくり急げ」を重ねて紹介する前書き。要は「急がば回れ」。

分かるようでいまいち分からないけどめちゃくちゃ大事そうに思えることわざランキング第一位。

由来
室町時代後期の連歌師、柴屋軒宗長の歌『武士もののふのやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋』より。
琵琶湖を渡って京に上るには、矢橋(やばせ)の港から大津への航路が近道に見えるが、風の影響などを受けて、しばしば、遅れたり危険を伴ったりする。確実に行こうと思うなら、瀬田の唐橋まで南下していくべきである、の意。
急がば回れ - ウィクショナリー日本語版

直線距離が安全な道でない場合は、安全で確実な道を行った方が、確実に結果を出せる、ということを端的に表現しようとした言葉が「急がば回れ」らしい。早いとか遅いとか急ぐとか、時間のことを持ち出すから微妙に分かりづらいんだな。

早いけど上手くいくかどうかは運次第な方法や、早いけどゴールに着くまで保たない方法は、結果を出したいならやめておけ、と。

さて、求める結果とは何か。等身大の充足感を得ることだ。直観的に分かる、具体的な生活で得られる嬉しさ。素の自分の存在を好きな人に認めてもらえる嬉しさ。それが私の答えだし、この本の答えでもある。

さて、その嬉しさを、死ぬまで、獲得し続けたい。ひとつのものを後生大事に抱えて生きるのではなく、常に新たに感じ続けたい。それには、それなりの稼ぎもいるし、競争の結果得られる経験も、捨てたもんじゃない。むしろ、欲しい。スローライフな等身大のイメージって、成熟しきってもう成長しないみたいなイメージがあるけど、それは嫌だ。でも、競争ですり減るのも嫌だ。

両取り出来るもんならしたい!

『結論はまた来週』という、ノンフィクションライター高橋秀実さんの書くコラムを読んだときのことだ。
”…北島は100mの準決勝で前半50mを19ストローク(かき)で泳いでいたらしい。しかしこれだと後半に手足がバテて失速する。そこで平井コーチは200mを泳ぐときのようにストローク数を減らして「全身を使ってゆっくり泳ぐ」戦略を立てて決勝に臨んだ。そして実際にゆっくり行ったら世界一早く着いたということなのである。”

のんびりやっていればいいということでもない。一つ一つ、一かき一かきには全力を尽くす。

ビジネスの由来は、bisig+ness。bisigは古い英語で、ここから派生した形容詞形がbusyだから、「忙しさ」をその語原に持つことになる。

…近年では「降りていく生き方」「減速生活者(ダウンシフターズ)」と言った言葉まで登場し、競争社会から離れ、少ない消費で、少ない収入でも等身大の充足感を実現する暮らし方の提唱も起こっている。

僕は常々、この中間がいいなと思ってきた。お金がすべてという発想に与するものではまったくないが、一方で便利さも求めたいし、贅沢だってしたいこともある。売上や利益は、自分の仕事に対する社会からの評価だ。新しい技術やアイデアで世の中が劇的に変化していく様子にワクワクするし、競争は自分を高める貴重な機会とも考える。

ビジネスとスローの間をいくもの。
「ゆっくり、いそげ」
AかBか、ではなく、どっちも。

第1章 1キロ三〇〇〇円のクルミの向こうにある暮らしを守る方法

より複雑な価値のキャッチボール

好きな人に自分の存在を認められたいというのは、そもそも不特定多数を相手にした競争の中で得られるものじゃない。

だけど、相手がいて、何らかのやりとりの中で生まれる嬉しさだから、そこには、社会≒市場が存在しうる。

ただ、その市場は、顔の見える関係の集まりで十分なんじゃないか。不特定多数をいきなり相手にする必要なんかないよね。

自給自足とか物々交換だけの小さな暮らしで満足できて、かつ、それを続けていけるなら、それはそれでよし。だけど、それで足りないなら、もう少し多くの人に通用する価値=お金で交換できるようにしなきゃいけない。

一般に、不特定多数の、顔の見えない参加者を想定した市場では、複雑な価値の交換は成り立ちにくい。それが「多くの人に、普遍的に認められる価値」である必要があるからだ。結果、「お金」「金銭的価値」への収斂が進む。…ところがこれが、「私」と「あなた」のような顔の見える関係となれば必ずしもそうではなくなってくる。他の人がなんと言おうと、それが世の中一般に受け入れられている価値ではなかったとしても、「私」がそこに価値を認めるのであれば、「あなた」との間で交換が成り立つ

不特定多数ではないが、特定少数でもない

経済・経営が成り立つには一定の規模が必要。これは逃れられない原則だ。つまり「特定少数」ではダメということだ。内輪な関係だけでは経済・経営は成り立たない。…だから「不特定多数」でもなく「特定少数」でもなく、「特定多数」ひとつの事業を支えられるくらいの規模で買い手が存在すること。…複雑な情報のやりとりが可能な、人を通じて、ネットを通じて、直接・間接に声が届く距離にある人たち。そうした層をいかに一定の規模で形成できるか。それが業を成り立たせる前提になる。

コラム1 特定多数とは何人か?

年間の来店者数がおよそ四万人であることや、またSNS上でのフォロワーの数などから類推…この数字が三〇〇〇人を超えた辺りから、経営の収支がようやく合うようになってきた手応えを感じた(スタッフに対しての給与水準等は、まったく十分ではないけれど……。)

クルミド出版」…一〇〇〇人に支持されれば初期投資を回収でき、支持者が三〇〇〇人にまで至れば、本を書いたりつくったりすることが一つの職業になるような収支水準となる。(誤字訂正)

本に限らず「つくる」ことに軸足を置いた業態であっても、「届ける」を人任せにしてしまわないことが、特定多数を形成する必須の条件なのではないだろうか。(誤字訂正)

糸井 1000人っていう単位になれば飯が食える

佐々木 糸井さんの言う「1000人の集まり」が潜在的にはできていたとしても、見つけて、はっきりとつなげるのは、なかなかできない場合が多いんです。

糸井 それはねぇ、おそらく、言いだしっぺになる覚悟がないと見つからないんですよ。それもやっぱり、当事者意識ですね。で、「俺が」があると、「俺も『俺が』って思ってたんだよ」って人と、つながれるんですよ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - メディアと私。

第2章 テイクから入るか、ギブから入るか。それが問題だ

お客さんの中に眠る「受贈者的な人格」

やっぱこれからはギブ&ギブの繋がりでしょ。pay it forward! っていうキラキラした感じもありつつ。

結局は、主体的にやること。糸井さんの言う当事者意識ってのも、これでしょう。テーマは違えど、河合隼雄先生にも本気で生きろといわれたし、岩本友規氏の「自立しろ、天職を持て」も同じだ。


この件については、別記事にまとめてみました。

で、それをどうやって実現するか。どんな仕事でどんな風に働けば、働くことも遊ぶことも暮らすことも、すべてが私個人の嬉しいに繋がる生き方ができるのか。 

それは、すべての領域で、<嬉しい>を目指して生きること。自分を活かすことが楽しく嬉しい仕事であること。お互いがギブから始まる関係でいられる職場で働くこと。自分のコミュニケーションや仕事をギブから始まるスタイルに変えること。

部活っぽい気がする。

自分の会社でこの働き方が出来るか。与えられた仕事に主体的に取り組むことが出来るか。とことんやれるか。コミット出来るか。

衝突をおそれずに、対話を繰り返すこと。前例主義に陥らず、何がその仕事の目的かを見失わないこと。いわゆる、いい仕事をすること。自己顕示欲はその仕事の成果で満たすことが大事なのかなと思っています。

「自分のスタイル」というものを表現ではなく、着眼点や方法に求めたい。表現そのものは、もう少し自由に、なりゆきで。

山中俊治(@Yam_eye)

そして、逆説的だけど、ギブする側になるために、自己顕示欲を表に出したコミュニケーションをやめること。(そのかわり、私はこのブログで思いっきり自己顕示するのでよろしくお願いします。)


※受贈者的な負債感を、大きく感じて大きく返せるなら問題ないと思うのだけど、「返せないほど大きい」と感じてしまうと、そこでストップしてしまうし、自己肯定感も下がってしまうと思う。
また、子供が生まれた家庭では、出産を経て妻は大きな貸しを、夫は大きな借りを感じる家庭もあるだろう。さらに、私には奨学金という借金を抱えたままの結婚という比喩ではない負債が存在する。どれだけ返しても返しきれないとなると、いつしかいったん無かったことにして考えるようになってしまいそうだ。

人はいい「贈り物」を受け取ったとき、「ああ、いいものを受け取っちゃったな。もらったもの以上のもので、なんとかお返ししたいな」と考える人格をも秘めている(と思う)。

「ああ、一〇〇〇円なんて価値じゃないな。もっと支払ってもいいのにな」…お店に返ってこなかったとしても、その「受け取った」ことによる「健全な負債感」は、その人をして帰り道に路上のゴミをも拾わせるかもしれないし、電車ではおばあさんに席を譲る気持ちにさせるかもしれない。つまり、「いいものを受け取る」ことは、その人を次の「贈り主」にすることなのだ。

第5章 人を「支援」する組織づくり

働き方の第三の選択肢

「自分の主体性が発揮でき、大変だけれどよろこびがあって、経済的にも持続可能(かつ成長可能)」。それを実現するカギが、組織の内部・外部両面にわたって、交換の原則をテイクからギブへと切り替えることにある。

コラム5 支援学と自己決定

吉本 自分が当面するいちばん切実な問題を それぞれで片付けていく途中、 不幸な人とか、 困った人とか、 そういう人にぶつかったとしたら‥‥
糸井 そこで「切実」が変わるわけですよね。
吉本 そのとおりです。今度はそこに力を貸してやるとか、そういうことが出てくるわけです。そういうことが重なっていくと、国を変えるとかいうことに繋がるから。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 吉本隆明 「ほんとうの考え」

それぞれがそれぞれの持ち場での改善をやり尽くしたら、その先には互いの領域に手を伸ばし合うことが必要となるのだ。

第6章 「私」が「私たち」になる

他人と共に自由に生きる

他者と関わり合うことで、自分一人では実現できないようなことが実現できるようになる。自分の「利用価値」や「機能性」でなく、「存在そのもの」を受け止めてくれる他者がいることで、素の自分に戻れる場所があるーーこうしたことはいずれも、一人である限りは得られない種類の「可能性」だ。

ただ、こうした前向きな関わり合いを実現するにはやはりコツがある。ーーそれが「支援の話法」。「話すより聞くこと」と「違いを楽しむこと」だ。


こうした関わり合いは、もちろん過程での摩擦やすれ違い、ときに感情的な対立なども内包しながらも、基本的には「楽しい」ことでもある。

あとがき

洗濯した娘の服を干しながら、私が求めていた丁寧な暮らしって、せいぜい、この洗濯物をちゃんと毎回干す、程度のことだよな、とも思いました。独身時代のすさんだ生活からのアップグレード。だから、いきなりマックス頂点に行こうとなんて、そもそも思ってなかったはずだな、と。

極論は悪い癖。

お客さんが自由であるために、ぼくらは不自由を受け止める。それが僕らの仕事であり、ぼくらの本分だ。

ぼくの中には、これまでご縁をいただいてきた本当に多くの方々が生きていて、ときどき「自分」なんていないんじゃないかと思うことさえあります。そうしたみなさんに、今ぼくは、恥ずかしくない自分であれているでしょうか。一つひとつのご縁に、心から感謝いたします。

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