タイトルとかはないよ、いまんとこ。

>アスペな自分 頭でっかちにならないように、体験ベースで書けよ。

平田オリザ氏とコミュニケーション能力について話したらアスペルガーでも希望を見いだせるかもしれない

「伝えたい」と思うには、「伝わらなかった」という経験が必要だ、というのが大きなテーマ。傷にならない形で、だけど切実に自分の問題だと捉えられるためには、どうすればいいのか。まったく結論はでない、散発的コメント集となっているが、ひとまず公開。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書) [ 平田 オリザ ]

価格:924円
(2020/4/14 02:51時点)
感想(17件)

まえがき

冒頭述べた傷つかずにズレに気づく方法が、伝わったという喜びを実感すること、それを周りにも伝えていくことなのだろう。それがこの本を書くことで著者がやりたかったことなのだろうと思う。

わかりあえない中で、少しでも共有できる部分を見つけたときの喜びについても語ってみたい。

たとえば海外の、英語も通じない旅行先で、六ヵ国語会話帖(いまは電子辞書だろうが)をめくりながらレストランでの注文を行い、自分の希望したメニューが、どうにかやってきたときの喜び。あるいは、それは自分の希望とは多少違っていても、思いのほか、美味しかったときの嬉しさ。
私はコミュニケーションの難しさと楽しさは、存外、そんなところにあると思っている。存外、その程度だと思っている。

第一章 コミュニケーション能力とは何か?

コミュニケーション能力のダブルバインド

察することが苦手だと自覚しているアスペルガー特性を持つ私が、「ごめん、わかんない。あなたが言ってるのはこういうこと?」と、明確に言葉にし続けていくことは、コミュニケーション能力をみんなで向上させていくことに繋がるのではないか。そこに希望を見いだしたくなる本である。

そして、私の周りにいる私に似た人や、これからコミュニケーション能力を身につけていく娘のために、私が出来ることは、あなたの気持ちを察してくれる人間ばかりでないよ、きちんと言葉にしないと伝わらないよ、ということを、身をもって示すことかもしれない。その一人目が私だよ、と。

いま、日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドにあっている。…日本社会全体が、コミュニケーション能力に関するダブルバインドが原因で、内向きになり、引きこもってしまっている。

単語で喋る子どもたち
「ケーキ」をどうしたいのかを聞かずにケーキを出してしまっては、子どもが単語しか喋らなくなってもしかたない。…単語でしか喋れないのではない。必要がないから喋らないのだ。
表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない。…だって、優しい先生も、優しいお母さんも、異なる意見を持った人とうまくつきあっていく方法なんて誰も教えてくれなかったのだから。みんなわかってくれたのだから。

「口べた」というハンディ
コミュニケーション教育は、ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。口べたな子でも、現代社会で生きていくための最低限の能力を身につけさせるための教育だ。口べたな子どもが、人格に問題があるわけでもない。…あと少しだけ、はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。…その程度のものであることが重要だ。

伝えたいという気持ち

伝えたいという気持ちが芽生える環境に身を置くことが大切だ。

そうでないと技術を身につける動機もないし、経験も得られない。経験さえ得られれば解決する問題がたくさんあるにも関わらず、だ。

私は、自分のずれが「問題である」「障害になりうる」ということに、仕事を始めるまで気付かなかった。周りとなじめなかった高校時代でさえ、自分のずれが問題なのだ、とは思わなかった。私は無自覚に他人を傷つけてしまうだめな人間なんだと考えていた。だめなのではなく、考え方や捉え方がずれているのだ、とは思えなかった。

今の妻に「発達障害レベルにずれてるよ。そのずれを自覚してずれを出さないようにしていかないと人とやっていけないよ。」と言われてようやく、ズレに自覚的になった。

ズレていても、ズレそのものは、問題視されなかった。あるいは、優しく無かったことにされていた。そして、そのことに気が付かなかった。これは、平田オリザがこの本でいう、他者がいない優しい環境で育ったことの弊害なのだろうと思う。だから、ズレを乗り越えようという気持ちは持ちようがなかった。経験値の問題だったのだとしても、その経験を積もうというきっかけがなかった。動機がなかった。動機付けもされなかった。

「あなたは特別に変な人間ではないよ。普通の人だよ。ただ、気づいていないことが多すぎるよ。」と妻に指摘されたことがあるが、これも人格の問題ではなく、必要な技術を身につけていないだけだよ、という指摘だったと捉えれば、この本で書かれていることから外れない。

「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
…演劇は、自分を出発点とすることができる。無理に自己を変えるのではなく、自分と、演じるべき役柄の共有できる部分を見つけていくことによって、世間と折りあいをつける術を、子どもたちは学んでいく(この点については、第七章で詳しく述べる)。


慣れのレベルの問題
「世間で言うコミュニケーション能力の大半は、たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね、二〇歳過ぎたら、慣れも実力のうちなんだよ」

「現場」という幻想から離れる
これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。…そのような新しい「現場」を作っていく以外に満ちはない。

あとがき

周囲とうまくやるために、周囲と上手くやれる自分を演じ、しかもそれを楽しむようになることは、理想像の一つだろうと思う。自他の世界の区別を付けて自立することの重要性を説いた、岩本氏の著書を思い出す。

希望はどこにあるのか
多文化共生は、決して生やさしい事柄ではない。「みんなちがって、たいへんだ」…恥辱や痛みに耐えながら、私たちは、古い服を脱ぎ捨てて、新しい衣装をまとい、新しい多様な仮面をかぶらなければならない。時間はかかる。その時間の重みにも耐えなければならない。
人間は、演じる生き物なのだ。進化の過程で私たちの祖先が、社会的役割を演じ分けるという能力を手に入れたのだとするならば、演じることには、必ず、なんらかの快感が伴うはずだ。だから、いい子を演じるのを楽しむ、多文化共生のダブルバインドをしたたかに生き抜く子どもを育てていくことは夢物語ではない。

※読み返すと私の文章が妙に読みづらい。少しずつ手直しをしているが、どうも直らないということは、書いたときの発送がややこしい頭だったんだろうな。。。